アニメ「こみっくがーるず」メモ。主にかおす先生について

アニメ「こみっくがーるず」かおす先生についての感想です。妄想多め。散漫になったの良くないが投稿。

 

 

セミオートで悪者になってしまうつらみ

冒頭からいきなり、現役女子高生のかおす先生が「現実の女子高生をわかってない」と批判されるところから、このアニメははじまる。

その後も「巨乳貧乳に属せない規格外の胸」「漫画家なのに絵が下手」「漫画家になれず実家に帰っても仕事できない」といった、多くの人が共通して持っているだろう感覚「女子高生だから女子高生の気持ちがわかる」「女は巨乳や貧乳どこかに属する」「漫画家なら絵くらいササッと描ける」「夢破れても実家に帰って家業を継げばいい」から外れてしまっているエピソードが出てくる。

 

ここに共感するかどうかで、かおす先生に対してどう感じるかが変わってくる。

例え話をする。実際に会話する相手が外国人や障害者といったわかりやすい差があるとき、ズレがあることが当然なので、余計なくらい気を遣うだろう。一方で、ネットでの文字だけのやり取りのような、相手の素性や文字を打ち込んでいるときの状況すら不明な場合、立場の違いに気を遣うことなく罵ったり自分のために綺麗事を言ったりする。その前提に立ったとき、「実際に会っても相手の立場がわからないことがある」「ネットで立場を欺いたりすべてを明かしていない人がいる」といった問題がでてくる。ここの食い違いをなくすことは不可能で、「急に殴ってこない」「買い物の仕方を知っている」「風呂に毎日入っている」といった勝手な思い込みのもとに、社会は成り立っている。近年「女性はやさしくてきれい好き」「大人は子供に性的興奮を覚えない」といった前提が崩れたせいで、いろんな齟齬が生まれているが、こういったことは引き返すことができない性質のものだ。

 

さて、話は戻ってかおす先生。かおす先生が抱えている問題は、理解されにくいものが多い。単なる何かが不得意なことがつらいだけでなく、それをふつうレベルに持ってくることに専念し、時間と自尊心をひたすら失い続けている。これがかおす先生の悲劇である。

一旦「ふつうの人」として扱われ、「ふつうの人」なら難なくこなせることができなかったとき、周りはかおす先生を「ふつうの人」カテゴリから簡単に外してくれない。ふつうの人がふつうにしてればできることができない時、本人の努力が足りないとか、ふざけているだけだと扱われる。かおす先生に対して「周りが甘やかしすぎている」と感じた視聴者は、おそらく少なくないだろう。そして、かおす先生が「ふつうの人ではない」「甘やかすのは良くない」の通りに行動したとしても、明るい未来は見えない。そういったことすべてに胸が痛くなる。

要するに、社会生活を送る上で当然できると期待される事柄について、自分にはどうしようもないまま周囲を裏切ってしまうわけだ。勝手に悪者にされ続けるが、どうやら正しいのは向こうらしい。本人の自覚なしにネガティブ発言をしてしまったり、掘っても掘ってもネガティブしかでてこないのが頻出なのも、それに拍車をかける。

そうしてかおす先生は、自分と周りを分ける。傍観者として女子高生を見つめ、アニメやフィギュアのようにそれを消費する立場を選んでしまう。それが一層自分をつらくさせるのに。

 

 

12話における下宿先で精神を病んだかおす先生と、かおす母の愛

アニメ最終話である12話で、寮生が自分しかいなくなり、かおす先生は一人で漫画の締切を追われる状況になる。一見わかりにくいが、あれは下宿先で精神を病み、実家に連れ戻される、という話だ。

大人側の目線で見ると、一連の流れがよくわかる。まず編集者の編沢さんと電話したときに情緒不安定が発覚する。それで友人である寮母さんに連絡し、コンタクトをとった寮母さんがホームシックであると判断し、実家に連絡。次の日かおす母が寮にやってきて、おそらく締切などの状況もわかった上で「さぁ、帰りましょうか」と半ば強引に家に連れて帰ろうとする。

3人の大人と関わる前後で、毎度「がんばると決意したがペンが動かなくて、頭を抱えて奇声をあげる」という描写が入る。「孤独がいつもの私だ」と開き直るギャグのようなシーンだって、ストレスフルな現在をふつうに設定するという、メンタルコントロールする上で完全なる悪手で次のステージに行ってしまう直前だとすると、とてつもなく恐ろしい。寮母さんが来るのが少しでも遅れていたら、誰から手を差し伸ばされても拒否してしまうメンタルになってしまっていた。それだけかおす先生はもう限界なのだという、あまりにも悲痛なシーンである。

 

そして、かおす母が一週間予定を切り上げて迎えに来る。幼少期に泣いてばかりだったかおす先生が、好きなことを見つけてくれたことが嬉しいんだ、と伝える母。

思えば、かおす先生が使っている液タブはPC一体型っぽいし、10万円じゃ済まない。たぶん30万円くらい。お金持ちの家庭だったとしても、ノリで買えるような価格ではない。

それができたのは、母が実際に言っている「うれしかったなあ。好きなこと見つけてくれて」に尽きる。それが漫画であるとか、将来漫画家になるとかは関係なく、「好きなことを見つけた」ことだけで、奇跡のように嬉しく思えるような子がかおす先生なわけだ。

幼少期から泣いてばかりで、勉強はできるけど友達はいなくて、オタク文化に浸って漫画を描く子。親からすると不安になるだろうし、友達をつくるように矯正しようとする親が大多数だろう。しかし、かおす親は否定せず、マンガやフィギュアを買うことを許し、高価な液タブを買い与えた。かおす先生と呼ぶところも、母のはしゃぎ様が読み取れる。その全肯定ぶりは、それだけかおす先生が手のかかる子で、親を不安にさせる子だったことを表している。

 

そんなかおす母にとって、かおす先生を寮暮らしさせるというのは、どういう気持ちだっただろうか。心配で不安でしょうがないだろうが、母は送り出した。そして、どうやらうまくいってないようだ、と連絡を受け、健康のために実家に連れ戻しに駆けつけた。

以下はその時の会話の書き起こし。

(a)「私よりうまい人は星の数ほどいるんです! その上で、みなさんすごく努力されてて、どんどん置いて行かれ、運良くデビューできただけで、私なんて、全然」

「お絵描きもつらくなっちゃったんですか?」

首を振るかおす先生。

(b)「苦しいなら帰ってきてもいいんですよ薫子ちゃん。泣いちゃうくらいつらくても、まだがんばりたいんですか?」

「ごめんなさい、わがままを」

(c)「そう。でっかくなりましたねー。あんなにちっちゃかったのに」

「お母さん! 何も変わってないですよ!?」

(d)「さあ、帰りましょうか」

「……もう少しここにいます」

「帰らないのですか」

「まだ、やり終えてない原稿があるんです。ここにいる間に、自分の力で終わらせたいんです!」

(e)はじめて驚いた表情「では、お家で待っていますね」

 (a)かおす先生はあくまで漫画家としての将来を話しているが、母は子に対して「好きじゃなくなったのか?」と聞いている。

(b)まさかの薫子ちゃん呼びである。つまり、漫画を描く娘ではなく、漫画がなくても我が娘である薫子ちゃんに話しているわけで、好きじゃなくてつらいだけなら、もう止めていいんだよ、漫画がなくても娘だよ、と諭している。

(c)ここで母と子のズレがハッキリする。母としては、泣きながらでもわがままについて謝る程度に成長したことを褒めているが、かおす先生にとってはそれはできて当然の認識だということ。

(d)後の「帰らないのですか」も含めかなり強引で、母がかおす先生の体調を心配していることが滲み出ている。のちの「漫画家さんの気持ちが第一ですから」という寮母さんの言葉は母も共有していて、「帰ってこい」の一言を必死に押し留めているのがわかる。

(e)驚きの表情は、(c)の時点で感じていたかおす先生の成長が、もう一歩先に行っていることがわかったからだろう。漫画家として、大人として責任を持って仕事を終えようとしている。

 

こういった、仕事や外の世界について目を向けている子と、子を心配する親、というのは、時代も地域も関係なくあることだろう。かおす母がすごいのは、かおす先生に一切甘えないところだ。「心配だから帰ってきなさい」なんて口に出さず、全力で好きなことができるように、かおす先生の負担を増やさないように努めているところだ。親としてどこまで立ち入るかを考え、そのとおり振る舞えるというのはすごいことだと思う。

おそらく、一般的な下宿してる大学生や、独り立ちした新社会人に対して、親はあれこれ言っちゃうもんだと思う。それは親の甘えだが、甘えるのが普通だとも言える。しかし、ふつうの生活が満足に送れないかおす先生の場合は、母も子も強くならなければならなかった。だから、ハードな環境に鍛えられた親子関係というヘヴィなシーンなんですねこれは。私はこのシーンを見るたびに、感情のやりどころに困ってしまう。

 

 

がんばることは素晴らしい

こみっくがーるず」公式ウェブページにおけるかおす先生のキャラクター紹介には「気弱だが頑張り屋さん」と書かれている。制作側が考えるかおす先生を表す重要な要素が「頑張り屋さん」というわけだ。

アニメを通して、かおす先生ががんばる決意をするシーンは非常に多い。

第1話でかおす先生が初めて自信のある表情をするのが、寮母さんに「がんばってね」と言われたときだ。そしてその後、アシスタント失敗して逆にフォローされる→「(がんばらなくては……!)」→「どうしたの?」に力強い笑顔で「がんばります!」→「あばばばば」という流れでも、やはりかおす先生の中ではがんばることにフォーカスが向けられている。12話で一人になってからも、編沢さん寮母さんお母さんと話したあと「がんばることを決意してもペンが動かない」が、寮生のことを思い出したら「がんばれた」という、物事をやれるかどうかはすべて「がんばれるかどうか」にかかっているかのような世界観を、かおす先生が持っているとわかる。

 

しかし、適切な対象に、適切な方法で、適切なタイミングでがんばらないと、求める成果は出てこないものだ。かおす先生のようにがんばるがんばるでは、疲れてがんばれなくなるか、がんばるの定義がズレてしまう。かつてとある居酒屋経営者が「無理と言わず続ければ無理でなくなる」という発言をしたらしいが、かおす先生はその戦略に則っているわけだ。

一方で「がんばればなんとかなる」というのは一面の真実でもある。人間は割と丈夫なので、自分の決めた限界や合理的判断よりも、とにかくやってみたほうがうまくいくことは多い。それに、小利口にあれこれ言い訳して何もやらない、というのは何も成し遂げられない人の特徴で、なおかつ漫画という対象も方法もタイミングも、熟慮の末功を結ぶようなものではない場合はなおさらだ。無理と言ってやらなかったとして、その責任を取るのは未来の自分だ。その上、かおす先生の魅力は「頑張り屋さん」だからで、利口に「今は頑張り時ではない」なんて言ってたら、漫画は上達しないし、親からも応援されないし、寮生からも編集者からも相手にされないだろう。

そして、こみっくがーるず最終話は、翼さんの「道は険しいほどがんばりがいがある」という少年漫画発言で終える。そう、アニメ「こみっくがーるず」は全編通して、主題歌も含めて、「ダメでも諦めずひたすらがんばる」という根性のアニメである。自分の健康や限界よりがんばりたい想いを優先することを描いた作品だったのだ。がんばる人をバカにして、何もせず言い訳ばかりしている人へのカウンターだ。

こういうハードなことをやりつつ、キャラが可愛くてギャグが面白いやさしい世界なアニメにできるのは、本当にすごい。コメディやCGDCTアニメとして楽しむことができ、上に書いたことは一切無視できるし、説教臭くもない。

 

 

おわりに

その他寮生と、あと演出と主題歌について書きたかったが疲れたので終了。もっと整理して書かないとなー。

私はもっときららアニメを見たほうが良さそう。「ごちうさ」「ブレンドS」とかも良いんだけど、たまにゴツンとやられるのに出くわす。「NEWGAME!!2期」も最高だった。

あと髪型やファッションがコロコロ変わるのがかわいい。かおす先生は狙ったダサさだし翼さんはもっと実用性重視じゃないかとかは思うけど、まあそもそも服何着持ってんだって話だし、そこはかわいさ重視かねー。

あと、何やってもダメ扱いなかおす先生だけど、たぶん4コマ漫画という形式において便利な役割がこなせてるなと思う。アニメの中だけでも1コマ目の切り出しの感じとか、周りがワイワイやった後かおす先生で落とす感じとか。自分から話しかけるシーン多すぎんだよなぁ。

ちなみに私はただでさえ漫画苦手なのに、4コマ漫画はもっと壊滅的なので、原作は読まないです……。IQテストで4コマ漫画みたいなテストやったらそこだけ20以上差ついたのだわー。