主に「Detroit」と「スパイダーマン」の感想

 

 

Detroit: Become Human(PS4)

クリアした。面白かった、が。ががががが。

 

近年ゲームは多機種展開が当たり前みたいになっているけど、Detroitは6軸やタッチパッドを使った繊細な操作が求められるため、固定されたプレイ環境が必須だ。そしてQuanticDreamのタイトルは、その操作感も含めた演出に非常にこだわりを持っているため、PC版が出るようなことはないと思っている(PSNowはもうその辺無視されてるっぽくて……)。

つまり、自分たちの表現に並大抵ならぬ自信を持っているわけだ。

しかし一方で、Detroitは「プレイヤーの選択で物語が変化する」も売りの一つである。

プレイヤー自身で変化させられるゲームを、自分たちの表現にこだわっている人に用意させたとして、それが果たしてうまくいくだろうか? Noだ。うまくいかない。

 

例えば、組織の女アンドロイドと恋人になるんだけど、私の選択だと徹頭徹尾意見が合わなかった。

彼女は暴力を求め、主人公は非暴力を続けた。その後、主人公の指揮により組織は発展していくんだけど、非暴力の選択をするたびに、彼女の好感度は下がっていく。この流れでは、彼女と恋人になる意味がわからない。せいぜい「意見は合わないが、尊敬はしている」といった感じだろうし、そこを埋めるイベントはなかった。ここに納得できないから、ラスト辺りに「アンドロイドにも感情がある」と知らしめるキスシーンも、人間を騙しているような気持ちになってしまう。

そこで抱いてしまうのが「クリエイター側はどういう選択をしてほしかったんだろう?」という、一歩引いた冷静な感情だ。これは本当にもったいない。

 

序盤は演出も本当に良かったし、繊細なテーマが丁寧に描写されていた。おそらく後半も一定のレベルは維持していたと思う。

しかし、物語を変化させられることによって、プレイヤーの考える主人公たちの性格や役割が微妙にズレてしまった。話が進むごとにそのズレは大きくなり、クリア後に抱いた感想は「どうすればもっと感動できたんだろう?」になってしまった。

 

すると、今まで無視できていた部分までもが気になってしまう。

例えばアンドロイドが強すぎるとか。男2人はアクションヒーローだし、カーラは単なるメイドロボで暴力無理なはずなのに、武装した警官を倒せるのはおかしい。もっと言えば、そんな危険なアンドロイド組織を制圧しに突入するのが人間の兵士なのもおかしいし、そもそも人間と戦闘能力でそこまで差があるなら最初から爆破や化学兵器でなんとかするはず。現実でも人の価格が高すぎて戦争できないとか言われてるのに、アンドロイドで危険労働が減っているはずの時代に、むやみに兵器と化したアンドロイドの巣に突入するのは、絶対におかしい。

こうなると、もう最初の方の感動も含めて台無しだ。あんなに強いなら、過去に悩んだ選択も変わってたかもしれない。

 

 

若干話し変わるけど、近年めちゃくちゃ評価されたRPG「Undertale」も、この傾向がある。冒頭からFloweyに騙されること前提の進行だし、その後もあの連中を好きになれないと感動できない展開が続く。Undertaleの仕組みは、殺す殺さないの選択肢を持っているからこそ悩めることにあるが、私は彼らを好きになれなかったし、「殺したいとも思えなかった」ので、あのゲームをイマイチ楽しめなかった。

あと、某VTuberのUndertale実況動画でめちゃくちゃ印象的なコメントがあった。それは「他の実況者は不殺目指しちゃうんで、好きに殺してくれて面白かった」といったものだ。

要は、たいていの実況プレイヤーはUndertaleを「誰も殺さなくていいRPG」と知ってプレイするし、虐殺ルートの存在もなんとなく知っている人が多いのだろう。あのゲームの一番ネタバレしちゃいけない部分を知り、そこを汲み取ってからゲームをはじめている。

DetroitもUndertaleも、製作者の求める「正しい感じ方」が用意されていて、そこに乗れない人は弾かれていく。だから多くの実況者はその「正しい感じ方」に沿ってプレイし、視聴者もその「正しい感じ方」をする実況者に共感する。

こういうのって悲しいなと思うとともに、どうしようもないんだろうなと思う。ポリティカル・コレクトネスが叫ばれるのは、マイノリティに配慮すべきだからではなく、「マイノリティに配慮すべき」というマジョリティに配慮すべきという、まさに政治的・社会的な理由があるからだ。マジョリティが評価する感じ方に合致したゲームが売れるし、その感じ方に自分を合わせたほうが楽しめてしまう。

よくわかんなくなってきたので終了。まぁ名作だし面白いと思いますよ。

 

 

 

スパイダーマン(PS4)

とてもたのしい。

爽快な街移動を短時間のミッションで挟むことでずっとやっちゃうタイプのゲームだと思う。

ファストトラベルしないほうが楽しい、って感想は、FF15でも抱いたが、これは自分を納得させるための感想ではない。もっと移動時間を楽しみたいという動機からきている。

 

ただ不満点が多いのも事実。ミニゲームがつまらないとか、時間を使うだけのイベントとか、腹ばい時の判定が微妙とか。

クリアしてミッションをこなしているんだけど、難しいと感じる部分ってほとんど「思ったように動かせない」ってのが理由なんよな。フォーカスが微妙なせいで、ちょっとした視線変更で間違ったところに飛んでしまうとか、強力な敵やタレットをすぐに排除したいのに全然フォーカスしてくれないとか。

クリアだけなら大して困らないとはいえ、ゲームの都合を意識させられるポイントが多いのは良くない。思ったように動かせないのもそうだし、鳩を見つけてからなぜかしばらくは捕まえられないとか、自由に飛び回ってたら「ミッション圏外です」と怒られるとか、秘密の写真が何を狙ったものなのかわからない(インスタ映え的なやつ?)とか、そういうのは冷めちゃうカナー。

 

ここからは作業と感じるようになってきた辺りまでやったので、終了。「もういいんです」という感じ。2周めもやらないし、DLCもたぶん買わない。楽しかったよ。

 

 

 

Farcry3(PC)

Farcry5を再プレイしようとしたが、いつの間にかSteam版に日本語がきていたので3に着手。クリアした。

結局のところFarcryってのは、「大自然を駆け回って、敵拠点を占拠していくのを、メインシナリオが邪魔する」ってシリーズなんだろうな。うん。

今4を少しやってるが、だいたいそんな感じだし、オートセーブが基本的にシナリオに従ってる感じなので、遠いとこまで行って偶然死んだら相当前からやり直すハメになる。

5のメインシナリオの凶悪なまでの邪魔感はすごいけど、それでも駆け回る快楽は圧倒的なので、5が一番オススメできる。あと3と4はオートエイムのレベル低いカナー。昔のゲームだしねー。まぁ舞台で選んでも良い。次回作はヨーロッパなんかどうすか。

 

 

 

月に寄り添う乙女の作法(PSVita)

元エロゲのノベルゲー。チマチマ進めてて、2人目の途中。

スクリプトがめちゃくちゃ良質で素晴らしい。読んでて「ん?」となるとこほとんどない。きちんと手間ひまかけて丁寧に作られているのがわかって、信頼して読み進めることができる。

お嬢様に従者の2人が4組計8人で話すシーンが多いんだけど、その雑談がとても気持ちいい。何か特定の話題があって、まるでヒップホップのフリースタイルみたいに誰かが言ったことを他の誰かのキャラに即した発言に変化し、それにまた返してというのが続いていき、登場人物間で話がコロコロしていくのが、本当に心地良い。飛び抜けた何かというより、盤石な体制に裏付けられた安心感ある感じ。

 

 

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2ヶ月近くぶりの日記。

最近は完全に精神的にも肉体的にもダメだな……。ゲームの感想もダメなところを多く書いてしまっている。うーうー。

いろいろダメなときでも、ちょうどいいゲームなら楽しめる

おれはもうだめだ。うう。

生活保護受給者とかうつ病の人がパチンコやって叩かれてるのみるけど、あれってパチンコが精神的に「ちょうどいい」からなんすよ。ストーリーを読み取ったり、次々に判断を求められたり、じっくり解決策を考えたり、そういったことに体力を使えないし、使う気が起こらない状態なんだけど、しかし何らかの反応とか快の感情を得たいというとき、その人にとってちょうどいいのがパチンコだったというだけのことで、人によってはクリック連打ゲーだったり、ポケモンGOだったり、落書きだったり、見に映った物質をすべて数式にすることだったり、緩衝材をプチプチいわすことだったりする。短絡的であまり内省できない人に対して「初等教育で学ぶべき抽象化の力が足りてない」と陰で言う人がいるが(いない)、そういった能力の可否ではなく、単なる精神の体力がないだけだったりする。

まあそんなわけで、ろくな精神状態ではない。休む感覚すらわからず、無理やり「休む」のテンプレをこなしていて、その一環でパチンコのような「ちょうどいい」ゲームを遊んでいる。うがー。

 

 

 

HITMAN

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ちょうたのしい。

「あいつを殺せ」とだけ言われて街に放り出され、どうしようもなく歩きまわっていると、街の人の会話からターゲットの館に侵入できそうな断片的な情報を入手でき、それについていくのも良し、そのまま街ブラするもよし、とりあえずムカつく警官を気絶させ、警官に変装して館に侵入し、館のスタッフに変装し、館のコックに変装し、毒入りケーキを……毒はなかったから普通のホールケーキを持っていき、ターゲットをケーキで窒息死させる。他にもスゴ腕マッサージ師に変装して施術中にポキっとやったり、一つのステージで多様な暗殺ができる。

先述の通り、私の精神状態がボロボロなので、もうノーキルノーアラートとかチャレンジ達成とか一切気にせず、街ブラ感覚で暗殺している。

ウォーキングシミュレータのような絶景があるわけではないが、生活の中にある素敵な瞬間を切り取る楽しみはあるので、インスタ好きカメラ好きの人はやってもいいかもしれない(適当)。暗殺もできるぞ。

 

 

Dungeon Warfare

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これもちょうたのしい。

ベーシックな2Dタワーディフェンス。最近続編がでた。

タワーディフェンス本来の快楽に満ちている」とか「自分の考えた作戦が成功したときの爽快感」とか「膨大な敵を蹂躙するのが楽しい」とかいろいろあるんだろうけど、要は自分にとって最初に書いた「ちょうどいい」がまさにこれだったという感じ。とりあえず最後2ステージにして新しい敵がでてきて、倒し方というか行動原理がよくわからなくてだるくて止めたとこ。

私はタワーディフェンスでいうとSanctum初代が好きなんだけど、それに比べて迷路作るコストが高いのが最大の違いに感じる。だだっぴろいエリアにブロックで迷路つくるのが好きだった。自身がいかに敵の頭を撃ち抜けるかは、自分にとって大して重要じゃなかったのだ……!

あとアンロック制なのも気になるし、ルーンで難しさ調整する感じもちょっと選択肢が多すぎてチョットという感じ。Sanctum初代の「はいこれクリアしてみて」な無骨さが好きだった。

まぁそんなのはSanctum初代との比較なだけであって、ちょうたのしいのは事実。

 

 

YumeCore

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めちゃくちゃ良いので、欲しい人は買うといいです。良さを言葉にできないので、スクショだけ。F12でスクショ撮れなかった。

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新・ロロナのアトリエ はじまりの物語~アーランドの錬金術士~

Vita版。

思ってたより、ほのぼの特化だった。時間ばっかりかかる戦闘バランスとか、イベントへの誘導がかなり質が低い。まぁ初のPS3だったし、前作がマナケミア2だし、仕方ないことなんだろう。1周目終えたあたりで、PS4版が発売されることを知った。強制終了とかが修正されて、ロード時間早いだけで買う価値ある感じ。グラフィックは解像度上がってもそれなりに見ごたえあるはず。

まぁそんなに面白くはなかった。トトリの難しさが恋しくなる。 あの錬金術で不可能を可能にする感があんまなかったな。

 

 

 

Detroit: Become Human

ああ~~~~やばいやつです~~~~~~。2時間くらい遊んだ。

私は「ニーアオートマタ」が嫌いなんだけど、その嫌いさについてもう1年くらいずっと悶々している。一応答えは判明しているんだけど、モヤモヤは晴れない。要は、アンドロイドが人間に作られたのに、その人間に迷惑がられる感じとか、そのあたり。ニーアも戦闘用に作られているのにエロい格好させられて、感情を持っているのに持ってないことにさせられ、我々人間を喜ばせるために媚びた話し方をし、エグい思いを何度もさせられ、その割にスカートの中を覗かれて恥ずかしがる動作を何度も見たらトロフィーもらえるみたいなゲスさとか、そういうのが大嫌い。この前「ぜんがく!紗奈アペンド」ってエロゲをプレイしたとき思ったんだけど、レイプの何が怖いって、妊娠とか苦痛とか恥辱とかいろいろあるんだけど、人間性の喪失であり自分がモノだったり商品として扱われたり、それまで生きてきた人生やお世話になった人々まで否定されることにあるわけじゃない。ニーアオートマタはそういうゲームなのに、プレイヤーは無自覚なまま感動したりできるようになってるとこが嫌いなわけですよ。エロゲの方がずっと誠実だし、ニーアオートマタこそまさしく有害図書に値すると思ってる。その辺りをきちんと扱ってくれてるDetroitには慰めてもらっている。

あと、まだ序盤なんだけど、あの娘に暴言吐いたあと「ごめんよ、わかってくれ」みたいなこという親父、私はああいう家で育ちました。「俺のことが嫌いなんだろ!?」とか「こんなひどい生活してるのは俺のせいだと思ってるんだろ!?」とか言ってきたあと泣かれるとさあ、親を憎めないわけよ。そんな家のアンドロイドになってさぁ、あんなことになったらさぁ、震えながらプレイすることになるわけですわ。こりゃあヤバいゲームだ。

あああとこのQuanticDreamの過去作「HeavyRain」と「Beyond」みたいに、わずらわしい操作をさせられるのは継続です。でもそうとう効果的に使われてるし、こだわりもあって素晴らしい。こういうのもCSの強みだなぁ。環境が違いすぎるPCじゃできない。まだ序盤とはいえ、演出にこだわられまくっててビビるので最高です。「アンドロイドやめろ!」って街頭演説してる人を主観で映すとか、見なくてもいいイベントだからなぁ。見逃すともったいない。

 

 

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以上。

最初に書いた精神状態で、アニメやラジオ垂れ流しながらゲーム遊んでて、あーこれ精神をバカにさせてるだけだなー、とか思ってて、そういうときにストーリーモノ厳しいかなー、と思ってDetroit迷ってたんだけど、一度プレイしたらすごかった。大事にプレイしよう。

アニメ「こみっくがーるず」メモ。主にかおす先生について

アニメ「こみっくがーるず」かおす先生についての感想です。妄想多め。散漫になったの良くないが投稿。

 

 

セミオートで悪者になってしまうつらみ

冒頭からいきなり、現役女子高生のかおす先生が「現実の女子高生をわかってない」と批判されるところから、このアニメははじまる。

その後も「巨乳貧乳に属せない規格外の胸」「漫画家なのに絵が下手」「漫画家になれず実家に帰っても仕事できない」といった、多くの人が共通して持っているだろう感覚「女子高生だから女子高生の気持ちがわかる」「女は巨乳や貧乳どこかに属する」「漫画家なら絵くらいササッと描ける」「夢破れても実家に帰って家業を継げばいい」から外れてしまっているエピソードが出てくる。

 

ここに共感するかどうかで、かおす先生に対してどう感じるかが変わってくる。

例え話をする。実際に会話する相手が外国人や障害者といったわかりやすい差があるとき、ズレがあることが当然なので、余計なくらい気を遣うだろう。一方で、ネットでの文字だけのやり取りのような、相手の素性や文字を打ち込んでいるときの状況すら不明な場合、立場の違いに気を遣うことなく罵ったり自分のために綺麗事を言ったりする。その前提に立ったとき、「実際に会っても相手の立場がわからないことがある」「ネットで立場を欺いたりすべてを明かしていない人がいる」といった問題がでてくる。ここの食い違いをなくすことは不可能で、「急に殴ってこない」「買い物の仕方を知っている」「風呂に毎日入っている」といった勝手な思い込みのもとに、社会は成り立っている。近年「女性はやさしくてきれい好き」「大人は子供に性的興奮を覚えない」といった前提が崩れたせいで、いろんな齟齬が生まれているが、こういったことは引き返すことができない性質のものだ。

 

さて、話は戻ってかおす先生。かおす先生が抱えている問題は、理解されにくいものが多い。単なる何かが不得意なことがつらいだけでなく、それをふつうレベルに持ってくることに専念し、時間と自尊心をひたすら失い続けている。これがかおす先生の悲劇である。

一旦「ふつうの人」として扱われ、「ふつうの人」なら難なくこなせることができなかったとき、周りはかおす先生を「ふつうの人」カテゴリから簡単に外してくれない。ふつうの人がふつうにしてればできることができない時、本人の努力が足りないとか、ふざけているだけだと扱われる。かおす先生に対して「周りが甘やかしすぎている」と感じた視聴者は、おそらく少なくないだろう。そして、かおす先生が「ふつうの人ではない」「甘やかすのは良くない」の通りに行動したとしても、明るい未来は見えない。そういったことすべてに胸が痛くなる。

要するに、社会生活を送る上で当然できると期待される事柄について、自分にはどうしようもないまま周囲を裏切ってしまうわけだ。勝手に悪者にされ続けるが、どうやら正しいのは向こうらしい。本人の自覚なしにネガティブ発言をしてしまったり、掘っても掘ってもネガティブしかでてこないのが頻出なのも、それに拍車をかける。

そうしてかおす先生は、自分と周りを分ける。傍観者として女子高生を見つめ、アニメやフィギュアのようにそれを消費する立場を選んでしまう。それが一層自分をつらくさせるのに。

 

 

12話における下宿先で精神を病んだかおす先生と、かおす母の愛

アニメ最終話である12話で、寮生が自分しかいなくなり、かおす先生は一人で漫画の締切を追われる状況になる。一見わかりにくいが、あれは下宿先で精神を病み、実家に連れ戻される、という話だ。

大人側の目線で見ると、一連の流れがよくわかる。まず編集者の編沢さんと電話したときに情緒不安定が発覚する。それで友人である寮母さんに連絡し、コンタクトをとった寮母さんがホームシックであると判断し、実家に連絡。次の日かおす母が寮にやってきて、おそらく締切などの状況もわかった上で「さぁ、帰りましょうか」と半ば強引に家に連れて帰ろうとする。

3人の大人と関わる前後で、毎度「がんばると決意したがペンが動かなくて、頭を抱えて奇声をあげる」という描写が入る。「孤独がいつもの私だ」と開き直るギャグのようなシーンだって、ストレスフルな現在をふつうに設定するという、メンタルコントロールする上で完全なる悪手で次のステージに行ってしまう直前だとすると、とてつもなく恐ろしい。寮母さんが来るのが少しでも遅れていたら、誰から手を差し伸ばされても拒否してしまうメンタルになってしまっていた。それだけかおす先生はもう限界なのだという、あまりにも悲痛なシーンである。

 

そして、かおす母が一週間予定を切り上げて迎えに来る。幼少期に泣いてばかりだったかおす先生が、好きなことを見つけてくれたことが嬉しいんだ、と伝える母。

思えば、かおす先生が使っている液タブはPC一体型っぽいし、10万円じゃ済まない。たぶん30万円くらい。お金持ちの家庭だったとしても、ノリで買えるような価格ではない。

それができたのは、母が実際に言っている「うれしかったなあ。好きなこと見つけてくれて」に尽きる。それが漫画であるとか、将来漫画家になるとかは関係なく、「好きなことを見つけた」ことだけで、奇跡のように嬉しく思えるような子がかおす先生なわけだ。

幼少期から泣いてばかりで、勉強はできるけど友達はいなくて、オタク文化に浸って漫画を描く子。親からすると不安になるだろうし、友達をつくるように矯正しようとする親が大多数だろう。しかし、かおす親は否定せず、マンガやフィギュアを買うことを許し、高価な液タブを買い与えた。かおす先生と呼ぶところも、母のはしゃぎ様が読み取れる。その全肯定ぶりは、それだけかおす先生が手のかかる子で、親を不安にさせる子だったことを表している。

 

そんなかおす母にとって、かおす先生を寮暮らしさせるというのは、どういう気持ちだっただろうか。心配で不安でしょうがないだろうが、母は送り出した。そして、どうやらうまくいってないようだ、と連絡を受け、健康のために実家に連れ戻しに駆けつけた。

以下はその時の会話の書き起こし。

(a)「私よりうまい人は星の数ほどいるんです! その上で、みなさんすごく努力されてて、どんどん置いて行かれ、運良くデビューできただけで、私なんて、全然」

「お絵描きもつらくなっちゃったんですか?」

首を振るかおす先生。

(b)「苦しいなら帰ってきてもいいんですよ薫子ちゃん。泣いちゃうくらいつらくても、まだがんばりたいんですか?」

「ごめんなさい、わがままを」

(c)「そう。でっかくなりましたねー。あんなにちっちゃかったのに」

「お母さん! 何も変わってないですよ!?」

(d)「さあ、帰りましょうか」

「……もう少しここにいます」

「帰らないのですか」

「まだ、やり終えてない原稿があるんです。ここにいる間に、自分の力で終わらせたいんです!」

(e)はじめて驚いた表情「では、お家で待っていますね」

 (a)かおす先生はあくまで漫画家としての将来を話しているが、母は子に対して「好きじゃなくなったのか?」と聞いている。

(b)まさかの薫子ちゃん呼びである。つまり、漫画を描く娘ではなく、漫画がなくても我が娘である薫子ちゃんに話しているわけで、好きじゃなくてつらいだけなら、もう止めていいんだよ、漫画がなくても娘だよ、と諭している。

(c)ここで母と子のズレがハッキリする。母としては、泣きながらでもわがままについて謝る程度に成長したことを褒めているが、かおす先生にとってはそれはできて当然の認識だということ。

(d)後の「帰らないのですか」も含めかなり強引で、母がかおす先生の体調を心配していることが滲み出ている。のちの「漫画家さんの気持ちが第一ですから」という寮母さんの言葉は母も共有していて、「帰ってこい」の一言を必死に押し留めているのがわかる。

(e)驚きの表情は、(c)の時点で感じていたかおす先生の成長が、もう一歩先に行っていることがわかったからだろう。漫画家として、大人として責任を持って仕事を終えようとしている。

 

こういった、仕事や外の世界について目を向けている子と、子を心配する親、というのは、時代も地域も関係なくあることだろう。かおす母がすごいのは、かおす先生に一切甘えないところだ。「心配だから帰ってきなさい」なんて口に出さず、全力で好きなことができるように、かおす先生の負担を増やさないように努めているところだ。親としてどこまで立ち入るかを考え、そのとおり振る舞えるというのはすごいことだと思う。

おそらく、一般的な下宿してる大学生や、独り立ちした新社会人に対して、親はあれこれ言っちゃうもんだと思う。それは親の甘えだが、甘えるのが普通だとも言える。しかし、ふつうの生活が満足に送れないかおす先生の場合は、母も子も強くならなければならなかった。だから、ハードな環境に鍛えられた親子関係というヘヴィなシーンなんですねこれは。私はこのシーンを見るたびに、感情のやりどころに困ってしまう。

 

 

がんばることは素晴らしい

こみっくがーるず」公式ウェブページにおけるかおす先生のキャラクター紹介には「気弱だが頑張り屋さん」と書かれている。制作側が考えるかおす先生を表す重要な要素が「頑張り屋さん」というわけだ。

アニメを通して、かおす先生ががんばる決意をするシーンは非常に多い。

第1話でかおす先生が初めて自信のある表情をするのが、寮母さんに「がんばってね」と言われたときだ。そしてその後、アシスタント失敗して逆にフォローされる→「(がんばらなくては……!)」→「どうしたの?」に力強い笑顔で「がんばります!」→「あばばばば」という流れでも、やはりかおす先生の中ではがんばることにフォーカスが向けられている。12話で一人になってからも、編沢さん寮母さんお母さんと話したあと「がんばることを決意してもペンが動かない」が、寮生のことを思い出したら「がんばれた」という、物事をやれるかどうかはすべて「がんばれるかどうか」にかかっているかのような世界観を、かおす先生が持っているとわかる。

 

しかし、適切な対象に、適切な方法で、適切なタイミングでがんばらないと、求める成果は出てこないものだ。かおす先生のようにがんばるがんばるでは、疲れてがんばれなくなるか、がんばるの定義がズレてしまう。かつてとある居酒屋経営者が「無理と言わず続ければ無理でなくなる」という発言をしたらしいが、かおす先生はその戦略に則っているわけだ。

一方で「がんばればなんとかなる」というのは一面の真実でもある。人間は割と丈夫なので、自分の決めた限界や合理的判断よりも、とにかくやってみたほうがうまくいくことは多い。それに、小利口にあれこれ言い訳して何もやらない、というのは何も成し遂げられない人の特徴で、なおかつ漫画という対象も方法もタイミングも、熟慮の末功を結ぶようなものではない場合はなおさらだ。無理と言ってやらなかったとして、その責任を取るのは未来の自分だ。その上、かおす先生の魅力は「頑張り屋さん」だからで、利口に「今は頑張り時ではない」なんて言ってたら、漫画は上達しないし、親からも応援されないし、寮生からも編集者からも相手にされないだろう。

そして、こみっくがーるず最終話は、翼さんの「道は険しいほどがんばりがいがある」という少年漫画発言で終える。そう、アニメ「こみっくがーるず」は全編通して、主題歌も含めて、「ダメでも諦めずひたすらがんばる」という根性のアニメである。自分の健康や限界よりがんばりたい想いを優先することを描いた作品だったのだ。がんばる人をバカにして、何もせず言い訳ばかりしている人へのカウンターだ。

こういうハードなことをやりつつ、キャラが可愛くてギャグが面白いやさしい世界なアニメにできるのは、本当にすごい。コメディやCGDCTアニメとして楽しむことができ、上に書いたことは一切無視できるし、説教臭くもない。

 

 

おわりに

その他寮生と、あと演出と主題歌について書きたかったが疲れたので終了。もっと整理して書かないとなー。

私はもっときららアニメを見たほうが良さそう。「ごちうさ」「ブレンドS」とかも良いんだけど、たまにゴツンとやられるのに出くわす。「NEWGAME!!2期」も最高だった。

あと髪型やファッションがコロコロ変わるのがかわいい。かおす先生は狙ったダサさだし翼さんはもっと実用性重視じゃないかとかは思うけど、まあそもそも服何着持ってんだって話だし、そこはかわいさ重視かねー。

あと、何やってもダメ扱いなかおす先生だけど、たぶん4コマ漫画という形式において便利な役割がこなせてるなと思う。アニメの中だけでも1コマ目の切り出しの感じとか、周りがワイワイやった後かおす先生で落とす感じとか。自分から話しかけるシーン多すぎんだよなぁ。

ちなみに私はただでさえ漫画苦手なのに、4コマ漫画はもっと壊滅的なので、原作は読まないです……。IQテストで4コマ漫画みたいなテストやったらそこだけ20以上差ついたのだわー。